【代表ブログ】共生社会の実現には支援者が最後の砦になる 〜不屈の大銀杏

令和3年の大晦日の神奈川新聞一面は、再建されたT園の正面エントランス、「多様性」道半ば、の見出しだった。私は8月に現地を訪れたが、ここには19名の犠牲者のうち18本のヤマユリの絵、7人の実名が刻まれていた。事件から5年、遺族らの様々な思いが、この事実から浮かび上がる。


私は、事件の被害者である(Aさん)ご家族に、事件から1年後にインタビューをする機会を得た。ご位牌にお参りをして、しばらく沈黙が続いた後、母親がこう切り出した。「私は地域の親の会の会長をするなど、幼少期の頃から地域で子育てをしてきました。しかし制度も変わり(いわゆる総合福祉法)、親の会の活動も継続には至らず、兄弟の子育てもあって、最重度の子どもの世話を託せる、満足できる機関は、できなかったし、見つけられませんでした。気づけば主人が70、私が65歳の後期高齢者になりました。」
「新しく行政の担当ワーカーになった方が挨拶を兼ねて訪問された際に、ちょうど主人が子どもと入浴をしていました。我が家では‘’日常”のことでしたが、ワーカーは、『ご家族もご高齢になられ、25歳を超えたお子様を‘’入浴介助”をするのは大変でしょう。ちょうどお母様も節目です。T園に空きができたから、入所を検討されては』と、言ってくれました。私たち夫婦は、‘’入浴介助”と言われた時に、ハッとして気づいたのです。そこで、地域の作業所への通所から、T園での入所生活を行うことにしました。」
「朝早く、電話がなりました。駆けつけると、空にはヘリコプター、道路は警察車両が何十台も並んでいるような物々しい雰囲気でした。子どもが亡くなっているかも知らされていませんから、着の身着のままで現地につきました。入り口には複数の知り合いのご家族がいましたが、中に入れてもらえないような人もいて、どうぞと言われた時には、「もしかしたら亡くなったのかな」と覚悟したのだと思います。何度も訪問している施設なのですが、床が血塗りでスリッパでは滑ってしまい歩けませんでした。凄惨な現場だったと思いますが、子どもの所にたどり着くまでのことはあまり覚えていません。
「白い布がかけられていて、子どもかどうか確認させられました。うちの子どもは、障害が最重度で、常にうつ伏せで寝るのですが、その背中を3個所刺されていました。他の犠牲者は、首とか顔とかを切られているのですが、幸いうちの子どもの顔はとてもきれいでした。」
「最終的には私が判断したことですから、子どもが亡くなったのは私たち夫婦の責任です。入所して三年間、週末は,原則、帰宅していましたし、月に一度は必ず当地を訪問し、様子を見てきましたが、それから3年目に、事件が起こりました。」
 母親は、別れ際、地域の親の会の文集を私にくれた。それは親の会の活動でキャンプに出かけた時の楽しい思い出を集めたものだった。「この世の中を希望の世の中に」、そんな思いの積もった、あたたかな手刷の文集を手にして、私は何度も読み返したが、気持ちはドンドン落ち込んでいった。
 私たち支援者の役割は多様である。相談、助言、指導、連絡・調整を、専門的知識と技術をもって実行しなければならない。その際、家族の想いに寄り添って最良の選択ができるように導くことがどれだけ大変で難しいことか、このAさんの事例で思い知った。

 先ずは理念先行と言われても良いから、「自立」という言葉を噛みしめるべきだ。T園はあっても良いが、選択権は本人にある。本人が万が一選べなかったら、次に選択権は親にある。親は確固とした理念をもって選択をしなければならないし、選択したならリスクを避けるために努力を怠らないことだ。それを支援者は親身になって助言する。
 最後の砦は、私たち支援者だ。本人の選択も,親や家族の選択も、支援者が砦になってサポートしなければならない。

2021年は、
これまでに経験したことの無い、挫折感と、どうしようもない焦燥感を覚えた。
2022年は、爪痕を残せるかな。


鶴岡八幡宮「不屈の大銀杏」2020



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